製図座

映画とかゲームとか音楽とか触れた芸術についてアウトプットしていく場所

一分前の自分は自分かもしれないし自分じゃないかもしれない。【梅田哲也展 wait this is my favorite part 待ってここ好きなとこなんだ】

 あけましておめでとうございます。気がついたらハチャメチャに更新してなかった。
 というのも10月から環境変わりどうも忙しく…。誰に言ってるんだがわからないがまァ一応。

1.開始まで

 日曜日、お昼頃池袋でFF7ACを見てきてから表参道へ移動し、夕方の会に参加してきた。この日はちょっと天気も微妙に晴れきらず少し肌寒い一日だった。
 美術館の展示というものに通常、参加という言葉はあまり用いない。teamLabや最近流行りのイマーシブ系のものには用いるかもしれないが、あれはどちらかというと資本主義的分野に強く足を踏み込んでいる毛色のもの(書き方がよくないが決して批判的性質は持ち合わせていない。)かと個人的に思っており、また自らの選択的能動体験というところに重きがあると思っている。この辺の話は未来の自分にしてもらうとしよう。

 本題の感想や考察の前に参加という言葉の個人的使用意図と今回のブログの意見の前提の話をしようと思う。
 私は公共性や私的空間について考えるのが好きだ。私の現代美術観に多分に影響を与えているChim↑Pom from Smappa groupは公共の空間とはなにかを模索するために美術館やギャラリーにアスファルトで道を作りそこで展示を見に来た人々とともに公共の道として成り立たせるためのルールの策定をした。

 なんとなく親しみやすい話題でいうとバンクシーのストリートアートはアートか?落書きか?という話かもしれない。バンクシーが書いたから美術的価値が生まれるが、そうでなければ(そうであっても)ただの器物損害でしかない。そこに生まれる公共の価値の創造や意義、意味合いといったことを考えるのが面白いのだ。その場その場全てに共通しているが細分化された独自の存在ルールが有る。社会におけるコミュニティと近いかもしれない。

 美術館とは公共の場である。ワタリウム美術館は私設美術館なので他の国立系などに比べると公共性に関しては少し低くなるかもしれないが、それでもやはり基本的に静かにすべきところだし、それこそ走り回るような公共を乱す人間は、もしかすると国立系に比べたらもっと少ないだろう。 

 しかし今回は普通の美術展示とは大きく要素が異なる、インタラクティブな美術館を舞台としたツアー参加型の展示である。

 美術館は基本的に受動的な場であることが多い。写真撮影の為や気になるあの人を口説くため、美術を専攻したりしている人にはその限りではないかもしれないが…まぁ多くの人間にとって美術館は自身の能動的な行動と関係なく完結する作品と触れることがほとんどを占める。

 これは美術館の大きな特徴であり担保されている所であろう。しかし今回の展示では勿論そういった担保はされているが、しかし自身の想像性や受動的行為が組み込まれることで展示が成り立つものだと思った。

 具体的な展示の話をしながら感想を述べていこうと思う。

1.9 感想の前提にあたって

 あくまで個人の感想であり正解不正解や快不快の話はしない。また作品の性質とブログ主の趣旨上、時系列的と感性を第一に描いている。

 しかし一度の体験なので細かい順序や時系列の前後は考えられる。また自分が心に残ったものを書くので、抜けてる展示などもあるかもしれないがそこはあくまで備忘録的側面の強いブログということを踏まえてプラス思考で見ていただきたい。

 最終日が終わったので問題ないとは思うが普通にネタバレなので一応注意を。

※レポ中心部分は斜め表記にしている。

 

2.感想

【始まり―暗い部屋】

 決して広いとは言えないエレベーターで私と私の同行者、男性1人、女性3人の計6人で4階まで登り、トイレと吹き抜けから見えるなにかの舞台裏??らしきセットを見おろすところから始まる。エレベーターで後から来た演者が静かにエレベーターを降り、壁だったところを開ける。壁の奥は暗い部屋に吊るされたガラス瓶と蠟燭。誘導されると壁が閉じられ暫しの蝋燭の明かりだけが小さく私達を照らす。

 私は結構密室で暗いところ、怖い系が苦手なので少し苦手じゃのおと思い少しだけ同行者を感じられるところからそっと蠟燭を見つめる。

 演者が静かに近づき、瓶になにかを入れていく。そしてライトで一周蠟燭を照らす。そしてトランシーバーを持ちライトで方角を指し示しながら今どの方角かとワタリウムの中心線について話す。

 東西南北と人は非常に深いところで結びついている。人間は星を頼りに昔方角を、理解し航海を行っていたし未だに方位除けなんてものや東京、京都では◯◯門で方角を指し示していたり、その方角に住む化生を門で霊験あらたかに防いだり。また枕の位置はどちらがよいなんてものも聞いたことあるだろう。

 暗い部屋で方角を指し示される。これだけで一気に人は安心ができる。自分がどこにいるかを提示されるからかもしれないが自らの存在している地面を踏みしめられるようになる。

 演者が信号が青になると道路を車が走る音が聞こえるという話をし、明かりは見えないが外階段へとつながるドアを開ける。車の音はたしかに聞こえてきた。

 暗闇で音が聞こえると少しぼぅっとしてくる。この感覚は知っていた。「21_21 DESIGN SIGHT」の【2121年 Futures In-Sight】展で見たevalaの作品だ。暗闇で真ん中が少し明るい中で音が聞こえてくる作品だったが、その作品でもやはり同様にぼぅとし、ある種のトランスではないが身体が暗闇での緊張から、音による弛緩という感覚は同じ感覚であった。また蠟燭と暗闇ではワタリウムでの視覚トリップ展の確かナム・ジュン・パイクの作品と記憶しているがそちらでもあった。ろうそくと暗室というギミックは似ている。なんとなくそんなことを思い出した。

【バックルーム】

 壁が開き別の演者に誘導され外の階段へと降りる。

 壁にある小さな穴から外が見える。同行者はそこで外の空き地の看板から人が見えたと言っていて見えちゃいけないもん見えたと言っていた。因みに私は気が付かなかった。以外と見る暇がなくてまぁ外の風景だしなという気分でもあったし。

 降りると入り口に糸電話が合ったがどこに繋がってるかこのときは見当もつかなかった。ドアから入るとワタリウムのどうやらスタッフルームに繋がっているようで、資材部屋に通されそこで初代館長の声が録音されたラジカセが鳴りながら女性がPCをうち部屋でワタリウムの設計図や集積物を見ながらワタリウムの由来について聴く。

 あぁ、つまりここはワタリウムの始まりと今までの歴史なのである。「待ってここ好きなとこなんだ」は(フライヤーを見ればわかるが改めて)ワタリウムなのである。日本の私設美術館として、現代アートを押し出す場として重要な意義を作り続けてきたワタリウムなのであると。私達が普段見る場所ではないバックステージまで使ったワタリウムという場所の時間の紹介なのかと。

【船旅と台車】

 スタッフ用のキッチンを通り階段を降りる。降りて次の部屋に入るとガラス越しに最初に見た組み立てられた舞台裏?が見えてくる。ここで舞台裏ではなくセットだとわかる。しばらく中を観ているとガラス越しにセットから演者が現れる。演者は顔の高さにワタリウム美術館施工許可証の複製ボードを掲げ、それから扉を開けそのセットの中に私達を誘う。入ると演者がグルグル回る拡声器越しで話を始める。

 今回の演者紹介を始め、また方角を指し示す。これから船旅を始めると、暗い部屋に居たのは1分後のワタシ。今いるのは一分前のワタシというとマイクから口を離す。だが拡声器からは声が聴こえ続ける。録音したものだったのだ。

 面白いと思った。この演目はその性質上シフト制で回るものだとは思っていたがそれをうまく取り、一日役割が決まり行動する演者の動きに自分たちは組み込まれている。繰り返される演者の行動、その回その回で違うものを見に行く私達。ここで規範されている演者と録音されている拡声器。自分の立ち位置の安全性が少し揺らいでいるかもしれない。それはもちろん物理的に今回の為に組まれた足場の心情的不安もあるし、そこに存在しているのに明日は全くの別の人、シフトで動く演者達という絶対性の動きの揺らぎ。

 私は人間というものはメメント・モリを呼び起こすことを苦手だと考えている。自分が今ここで死ぬことを想定して身体を動かす人間はあまりいないし、いつか人間は死ぬとわかっていてもなんとなく何年後も同じように生きていると思い込んでる。

 人間の細胞は約三年で全て入れ替わるという。また都市も日々変化している。毎日同じ時間に同じ行動をし続けているものはほとんど無い。そんな中ある種美術品の恒久的保持を目的とする美術館。変化する社会。現代アートとは?とグルグルと世界が巡る。普遍と不変と変化。

 拡声器で紹介が終わるとセットの階段を降り台車の上に乗る。眼の前の窓が大きく開かれると同行者があそこにやっぱり人がいるよ!と言って眼の前を指す。確かに目の前の看板の有る空き地から人が手を振っている。そうして台車が船の音とともに動き始める。これは航海であった。あそこで手を振っているのは異国の人であろうか、それとも私達の旅を見送る人であろうか。

 前でも述べたが方角とは旅をする時に必須のものである。自らが今どこにいるのか?どこから来たのか?どこへ向かうのか?これはこの展示においても同じかも知れない。ワタリウムを巡る現在にいながら過去を断片的に巡る時間旅行の中で。タイムマシンは理論的に言えば未来へ行くことは可能だそうだ。だが過去には行けない一方通行である。しかし、想像の世界では違う。想像することで私達は知らない過去のことも断片的に知ることができる。可能性の世界を台車、いや船を通じて指し示している。

 

 船を降りる。下で販売しているTシャツを作る人、異国の音が流れる中で事務作業をする女性たち。右端と左端では外に向かってそれぞれ緑と赤のライトが光っている。

 それぞれが調和と異質を同時に含んでいる。外に向かって伸びるライトの色を見て信号機と他の人が言っていた。確かに信号機は青と赤の構成だ。それとは別に私は飛行機を思い出した。飛行機の両翼は緑と赤である。公演が終わってから今調べているとどうやらこれは船の「舷灯」の灯火ルールと同じらしい。私達が台車から降り立った地はワタリウムの旅のそれぞれの地点かと思っていたがどうやらそれだけでなく、気がつくと私達はワタリウム美術館という大きな船の中に居たようだ。渋谷の地で現代美術のカルチャーを提示し続けてきたワタリウム。今までの軌跡とこれからの行く先をこの船に乗って私達は時に遠くから、時に近くから歩むのかもしれない。

 演者に誘導され階段を降りる。一階の入口に戻る。旅もこの展示もこの演目も徐々に終わりが見えてきた。地下へ誘導される。地下では天野裕子氏のこの展示に関連した写真が展示されている。第三者の目から見たこの展示を本人の声を通して撮影の意図について聴く。贅沢な時間である。

 旅も意外とこんな感じなのかなと思った。一度外に出て様々に経験、体験をした後に元鞘へと戻る。そして元いた所で安心感を覚える。そして少しゆっくりと自分が体験したことをカメラを通して、第三の目を通してもう一度振り返る。自分が体験しなければわからないコト、カメラ越しでしか気付けないコトの両方がある。

 天野氏の目線でしか気が付かない視点と私しか気が付かない視点。それが重なる瞬間の写真は私達にとってすごく快感であり、ギャラリーと展示が一体化してある醍醐味であった。

 カフェスタッフの通路を通る。そこで5分後に地図の場所に集合してほしいと告げられる。一度別れたあと5分後にあの看板の上で集まる。次の回の人たちに手を振り、そして自由解散となりこの展示は終わりを迎える。

 地図を見て今までは誘導されていた旅を最後に自らの意思で向かう。自らの足で街を踏みしめる。そして空き地に着く。チンポムの作品の横を通り看板の上に立つ。

 そして後ろの回の人たちに手を振る。私達が数分前にされたように。

 私達は旅の終わりで次の旅人達を見送っているのかもしれないし、こちらに来ることを歓迎しているのかもしれない。それは数分前の自分達のように。数分後に体験するあの人達に向けて。そしてシフト制で周る演者たちにありがとうの意も込めて手を振る。この行為はとても自然で美しい行為である。同時にワタリウムを巡る時間旅行の終着点としてとてもキレイだと思った。

 たまたま同じ回を選んだ見ず知らずの人と時間を共有することで少し話しながら親近感が湧く瞬間。同じ要素を脈々と繋ぎながらしかしその時その時によって、人によって変わる普遍性。同じシフトでも回、日ごとに違うだろうしそういった意味では常に最新であり続けることの面白さ。そしてワタリウムのバックヤードを垣間見つつその持つ歴史を感じられる今回の作品はとても楽しく、美しい気持ちになるものだった。 

 

3.総評

 とても楽しく美しいと思った。作家の好きが溢れていたし、旅をしている気分で建物を巡れた。ワタリウム美術館の形状はかなり独特でそれを活かした表現方法や作品の一部として入ることで私達の存在を改めて地に足つけられるモノに少なくとも私にとってはなった。

 現実では国立の博物館などですら経営が厳しいという。社会全体がそれだけ体系的な深い知識や思索に耽ることを許せないほどに追い込まれつつある。また自らの手の届くこと以外への不寛容が少しだけ強まっている。そんな中でこの展示ではほとんどが目線や少しの動きだけで誘導し、私達は誰に強要される訳でもなく自然と空き地から見知らぬ人に手を振っている。同じ場、空間を共有し空気感を味わうことでほんの少しでも誰かのことを何かのことを考えることが出来て、改めてワタリウム美術館のことを待って、好きと思わせてくれるものであった。

 

久しぶりに書いたら疲れた…。そのうちリンクつけたり追記修正するかも。

舞台『チャーリーとチョコレート工場』

ずっと注目してた舞台、チャーリーとチョコレート工場を2回見た。2回目を見たのでそのままつらつらと感想含め書いていこうと思う。またこの記事ではネタバレ配慮とか無く好き勝手に堂本光一及川光博は永遠の王子様であると認識している一般男性の感想ということには留意されたい。

 

堂本光一についての認識が改められたと言っても過言ではない。基本的にそこまで詳しくない人からしたらキンキキッズの王子様、関西人、布だぜ?辺りが関の山だろう。というか私もそうであった。正直今回のウォンカもどちらかというと原作や映画の奇人というよりかは"おかしな工場長"でありながらカッコいい王子様方面にいくと考えていた。

 

しかし冒頭、チョコレート店を出したところからそうではない男であるとわからされる。もっとコミカルにケミカルな男なのだ。勿論どんな服装もきこなすし白地にピンクの服装のベスト姿で歌い踊る様はまさにかっこいいという言葉を持つ男でしかない。声も映画版の藤原啓治や日テレの宮野真守のような常に茶目っ気を持ちながらも裏にある精神的未熟や底冷えしたアダルトチルドレンというより、もっとふざけておあり散らかしこそすれ、精神的な成熟をしている男であった。SHOCKを始めとする演技経験から裏打ちされた周到なキャラ造形にはひたすら脱帽するばかりである。

特に今回は原作も日本でも有名な児童書であり、映画の特大ヒットはいまだに我々の中でウォンカ=ジョニデである。そのイメージがある中でうまく自分の持つウォンカを作り上げたなぁと思った。

 

子役達もまた素晴らしかった。あまり子役が多い舞台を好まない層も一定数いると聞くが個人的にはなんて愚かなんだと思う。

チャーリー役は2回ともチョウシ君だったのだがとても演技力、歌唱力どちらも高く主人公として素晴らしかった。歌はノビがあり澄んだ歌声でとても気持ちが良かったと言えよう。この作品で重要なチャーリー役、ウォンカ以下全員が過剰にデフォルメしきったこの作品において約三時間観客の精神的拠り所になるのはバケット一家であり特にチャーリーだ。必然的にチャーリーは観てる人が愛着を持つ定めにある。そう考えるとチョウシ君の演技は私達がチョコレート工場の毒と甘味を愉しみながら中和してくれるのに非常によいクッションであった。

 

他の出演者も同様に面白く味付けがされ演技の楽しさもあり楽しめた。

子役はそれぞれのキャラがとても立つようになっていたし、バイオレットはYoutuberやInstagramといった今時要素が混在していると言える。(まぁそのおかげでなんで父親が撮影している機材はビデオカメラなんだというツッコミを入れたくなったのは事実だが)。親サイドは一部性別まで変わっているが、子に対してそれぞれ性別の違う親という色の付け方ということなのであろうか。確かに小説や映画以上に五感への情報が多いのでそういった分け方の方が見やすいのかもしれないし、バカ親の説得力も非常に高まると言える。そしてそんな中で真っすぐ育ったチャーリーと子供と大人の対比が際立ちやすいともいえよう。

 

やはり森公美子、鈴木ほのかの声の表現力は非常にすごかった。

だからこそグループ夫人の見せ場がもう少し多いと面白かったなと感じる。もっと声量お化けを使うタイミングはあったのじゃないかという点だけが少し寂しかった。

 

曲目

ここからは曲で印象に残ったものをいくつかピックアップしていく。

1.キャンディーマン

一曲目からウォンカの曲である。ウォンカの持つ少し妖しい男、キャンディーマンとしての魅力を一人で最初から歌いあげる。幕開けとして物語の導入を果たすナンバーとして非常に良い曲だと感じる。

2. 何が間違ってんの

マイクがゴールデンチケットを当てた際のナンバー。ゲームのパロディでゼビウスパックマン、インベーダーのパロディを使い且つダンスにもDAPUMPのUSAを取り入れるなど他とは違う見せ場が多くやりたい放題である。ほかの子供たちの曲もそれぞれに尖っていて原作や映画以上に個性が厚くなっているがマイクはその極めつけの様だろう。まさか母になりアル中の抗うつ剤服用者になるとは原作者も思いもしなかったろうが、そのおかげでベルーカやバイオレット母が受け持っていた点をうまく引き継いで集約できたのは非常に成功だったと言えよう。

 

3.見れるって思ってるね?

第一幕最後の曲。ウォンカが最初老人の姿で出てくるがこれはチャーリーの言葉をウォンカがジョークで最初に登場に利用した仕掛けが面白い。それがすべてわかっているのは観客とウォンカだけであり、そのニヤッとした作りから一瞬の早着替え、そしてそこからくるこれまた音の取るのが難しそうな曲をこなす堂本光一のすごさである。

しかしこの曲で一番大切なのは最後の最後一幕ラストのセリフ「ようこそ、チョコレート工場へ」であろう。ここのウォンカのカッコよさたるや、幸い男であるためトイレ戦争とは無縁なのでその余韻に浸りまくり。脳がチョコレートのようにとろけていた。

(↓同行者とのライン。脳死である)

ここの堂本光一はとてつもなくイケメンでかっこよすぎて且つ休憩への流れが完璧なのである。大感動。

 

4.ウィリーがウォンカと逢った時

カーテンコール曲にもなっている曲で、かなりポップな曲である。何がどう考えてもめちゃくちゃハードな動きを要求されるウンパずっと注目してた舞台、チャーリーとチョコレート工場を2回見た。2回目を見たのでそのままつらつらと感想含め書いていこうと思う。またこの記事ではネタバレ配慮とか無く好き勝手に堂本光一及川光博は永遠の王子様であると認識している一般男性の感想ということには留意されたい。

 

 

 

堂本光一についての認識が改められたと言っても過言ではない。基本的にそこまで詳しくない人からしたらキンキキッズの王子様、関西人、布だぜ?辺りが関の山だろう。というか私もそうであった。正直今回のウォンカもどちらかというと原作や映画の奇人というよりかは"おかしな工場長"でありながらカッコいい王子様方面にいくと考えていた。

 

 

 

しかし冒頭、チョコレート店を出したところからそうではない男であるとわからされる。もっとコミカルにケミカルな男なのだ。勿論どんな服装もきこなすし白地にピンクの服装のベスト姿で歌い踊る様はまさにかっこいいという言葉を持つ男でしかない。声も映画版の藤原啓治や日テレの宮野真守のような常に茶目っ気を持ちながらも裏にある精神的未熟や底冷えしたアダルトチルドレンというより、もっとふざけておあり散らかしこそすれ、精神的な成熟をしている男であった。SHOCKを始めとする演技経験から裏打ちされた周到なキャラ造形にはひたすら脱帽するばかりである。

 

特に今回は原作も日本でも有名な児童書であり、映画の特大ヒットはいまだに我々の中でウォンカ=ジョニデである。そのイメージがある中でうまく自分の持つウォンカを作り上げたなぁと思った。

 

 

 

子役達もまた素晴らしかった。あまり子役が多い舞台を好まない層も一定数いると聞くが個人的にはなんて愚かなんだと思う。

 

チャーリー役は2回ともチョウシ君だったのだがとても演技力、歌唱力どちらも高く主人公として素晴らしかった。歌はノビがあり澄んだ歌声でとても気持ちが良かったと言えよう。この作品で重要なチャーリー役、ウォンカ以下全員が過剰にデフォルメしきったこの作品において約三時間観客の精神的拠り所になるのはバケット一家であり特にチャーリーだ。必然的にチャーリーは観てる人が愛着を持つ定めにある。そう考えるとチョウシ君の演技は私達がチョコレート工場の毒と甘味を愉しみながら中和してくれるのに非常によいクッションであった。

 

 

 

他の出演者も同様に面白く味付けがされ演技の楽しさもあり楽しめた。

 

子役はそれぞれのキャラがとても立つようになっていたし、バイオレットはYoutuberやInstagramといった今時要素が混在していると言える。(まぁそのおかげでなんで父親が撮影している機材はビデオカメラなんだというツッコミを入れたくなったのは事実だが)。親サイドは一部性別まで変わっているが、子に対してそれぞれ性別の違う親という色の付け方ということなのであろうか。確かに小説や映画以上に五感への情報が多いのでそういった分け方の方が見やすいのかもしれないし、バカ親の説得力も非常に高まると言える。そしてそんな中で真っすぐ育ったチャーリーと子供と大人の対比が際立ちやすいともいえよう。

 

 

 

やはり森公美子、鈴木ほのかの声の表現力は非常にすごかった。

 

だからこそグループ夫人の見せ場がもう少し多いと面白かったなと感じる。もっと声量お化けを使うタイミングはあったのじゃないかという点だけが少し寂しかった。

 

 

 

曲目

ここからは曲で印象に残ったものをいくつかピックアップしていく。

 

1.キャンディーマン

一曲目からウォンカの曲である。ウォンカの持つ少し妖しい男、キャンディーマンとしての魅力を一人で最初から歌いあげる。幕開けとして物語の導入を果たすナンバーとして非常に良い曲だと感じる。

 

 

2. 何が間違ってんの

ゴールデンチケットを当てた際のナンバー。ゲームのパロディでゼビウスパックマン、インベーダーのパロディを使い且つダンスにもDAPUMPのUSAを取り入れるなど他とは違う見せ場が多くやりたい放題である。ほかの子供たちの曲もそれぞれに尖っていて原作や映画以上に個性が厚くなっているがマイクはその極めつけの様だろう。まさか母になりアル中の抗うつ剤服用者になるとは原作者も思いもしなかったろうが、そのおかげでベルーカやバイオレット母が受け持っていた点をうまく引き継いで集約できたのは非常に成功だったと言えよう。

 

 

3.見れるって思ってるね?

第一幕最後の曲。ウォンカが最初老人の姿で出てくるがこれはチャーリーの言葉をウォンカがジョークで最初に登場に利用した仕掛けが面白い。それがすべてわかっているのは観客とウォンカだけであり、そのニヤッとした作りから一瞬の早着替え、そしてそこからくるこれまた音の取るのが難しそうな曲をこなす堂本光一のすごさである。

 

しかしこの曲で一番大切なのは最後の最後一幕ラストのセリフ「ようこそ、チョコレート工場へ」であろう。ここのウォンカのカッコよさたるや、幸い男であるためトイレ戦争とは無縁なのでその余韻に浸りまくり。脳がチョコレートのようにとろけていた。

 

(↓同行者とのライン。脳死である)

 

 

ここの堂本光一はとてつもなくイケメンでかっこよすぎて且つ休憩への流れが完璧なのである。大感動。

 

 

4.ウィリーがウォンカと逢った時

カーテンコール曲にもなっている曲で、かなりポップな曲である。何がどう考えてもめちゃくちゃハードな動きを要求されるウンパルンパだがここでは非常に動く。中がどうなっているかは私は残念ながらわからなかったがコーラスもきれいですげぇなあと思う。

 

 

衣装や演出、舞台

とにかくPOP!衣装一つ一つがアートだし場面一つ一つが切り抜いて成立するようなほど際立っている。工場最初のなんでもお菓子でできている造形なんか嗅覚的仕掛けもあり五感全てで舞台に没入が出来る。見やすく分かりやすいよう細かい配慮がされておりおもしろい。

何より映像!映像があそこまでふんだんに使われていて視覚情報を大量に持ってくる舞台として非常に異質なまでの映像での補完がすさまじい。個人的に原作付きで非常に原作もメディア展開も成功している舞台は割とそういうところは観客の共通認識としてまかせるものも多いと感じているが、今回の舞台では効果的に映像演出を使っており楽しく見やすく舞台をアシストしている。

他にもアドリブだったり小ネタ、パロディが大量に仕込まれており笑わせながら楽しく見れることを第一に考えられているなと感じた。

 

総評

全てにおいて非常に帝劇を使うにふさわしい素晴らしい舞台だった。なんといっても子役の活躍と堂本くんのすばらしさが際立っていた。そしてそれを支えるメンバーに演出、造形どれをとってもみんなが楽しめるようにうまく配慮され明るくしかし時に冷たくという原作や映画の良い部分も継承しつつ日本の舞台で且つオリジナルに作り上げることにしえこうしたよい作品だったと言えよう。総じてチョコレート一枚食べきるくらいのカロリーを感じる作品だった。

ナラッキーに行ったらスーパーラットと奈落と光を見た話

本日、新居の契約で新宿に行く用事と友人と遊ぶのも重なりナラッキーに行きたいねとなりいってきた。土曜日夜ということもあり新宿はがっつり人の動きも戻りつつあるなぁという気分。まぁめったに新宿東口は寄り付かないんだけど。

友達の仕事もあり合流したのは18時前頃。外も暗くなってきてまさに歌舞伎町はその顔をだんだんのぞかせる時間。友人のアシストもあり今回の展示の舞台『王城ビル』にはすんなりとたどり着いた。

 

え、めちゃいい建物じゃん!!ラブホみたい!!!!

 

これは多分おしゃれラブホをたまに調べたりタモリ倶楽部を見ていた人間共通の感想だと思う。知らんけど。

まぁそんなことは置いといてさっそく受付へ、ここでは入場料金と同意書の記入をお願いされる。ヌード展示あるし廃ビルだしってことを了承したら会場までの行き方を教えてもらい、いざ裏口へ。

いや裏口暗すぎだし汚すぎだろ!!!昔働きたくない3Kなるものが流行ったと聞くが、この裏口は多分3K通り越してエアK。弁天様の横を通りコスプレ風俗であろう建物の間を突き抜けて向かうというシステムであり中々かっぺには勇気のいる道。

勇気をだし歩き出した瞬間、われらがChim↑Pomの常に命題に掲げてるネズミちゃんと目が合った。これは展示ではなく生きたスーパーラット。

 

私はとてもネズミが苦手だ。それこそ森美術館で友達の後ろに隠れ、ANOMALYでは彼女の後ろからこっそりとじゃないと展示を見れないほどに。そして美術手帳の表紙がスーパーラットのせいでいまだにChim↑Pom特集は買えない。怖いもん

 

過去の話をしよう。私は忘れもしない小学四年生の1月、親戚そろっての餅つき大会でのことだ。当時ふざけて納屋の奥にいった私はネズミ捕りに引っかかり死んだネズミ数匹と靴がくっついたトラウマがある。今考えてもあれはおぞましい体験だ。あぁ…あわれ幼き少年はそれ以来ネズミに極端に怖がる青年へと育ってしまったのだ。

 

まぁこんな過去から私はネズミととても相性が悪い、そんな私が暗い路地裏を勇気を出して飛び込んだ瞬間明らかにくそでかいネズミと目があってしまった。これは私の小さな勇気をくじくには十分すぎる動機だったのだ。ひとまず友人を連れ道をでてほかの人たちが来るのを待ちしれっと先に行かせ、友人も先に行かせ、後ろには知らんおっさんを配置し盤石の布陣で突入をし、無事突入成功した。

(いや中も思ったより廃ビルだなぁ!!)そんなこととネズミが出ないことを祈りながら階段を進む。

以下は今回の解説の順に感想が続きます。

 

奈落

さっそく今回のテーマにして目玉の作品。尾上右近の自主公演『研の會』による公演中の奈落で録音された歌舞伎公演の音を聞きながらビルの吹き抜け/奈落を眺める。

奈落というものは普遍だと私は思っている。挫折をしたことがいない人間は基本的にはいないし、今人生の底だと思ったことがない人間もまずいない。これは歌舞伎町が形成されてきた歴史の中でもそうだろう。元々は歌舞伎を誘致するはずが失敗し名前だけ残った町、学生運動やデモの場所にもなった町、風俗街やトー横の問題のある町、そしてコロナでの悪として名指しされる舞台となった町。

歌舞伎町はコマ劇場やトーホーシネマズ、また区役所という重要な役割を果たす施設がおかれた街だ。そしてその歌舞伎町を作り出しているのは常に隠され奈落で生きる人間が主役だ。多くの人間が必要と認識しつつそれを蓋をしているのがこの町だ。

奈落に話を戻そう。この作品では奈落から↑を見上げることも下の一階の人間も見ることが出来る。むき出しのコンクリートは命を吹き込むわけでもない。ただそこに存在したことを暗い中で伝えてくれる存在だ。

 

The Making of the Naraku (セクション)

はじまり

ちょうど昼に軽く読んだ松田修Chim↑Pom from Smappa!Groupの共作。奈落を映すアーティストとしてこれほどふさわしいタッグも少ないだろう。エリィが映し出された映像では何かしらの会話をしており、始まりから面白い作品である。この映像の感覚は松田修らしさのエッセンスを感じることが出来、森美術館での「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」の《奴隷の椅子》も想起させる。

 

「顔拓」

ドラァグクィーンのMONDOの個人的なものを作品として展示したものだが、なかなかに面白い、私たちにとってドラァグクイーンは派手でどこか日常的でない存在であり、もちろんMONDOもパフォーマーとしての瞬間はそうであろう。しかしこの作品ではその強烈な個と人間である個のボーダーが取り払われている。私の友人の女の子でも化粧をするとそういう自分を被って気合が入るといぅていた女の子がいた。化粧も服と同じで自らに別のペルソナをデザインするものであり、その過程を記したものではないか?と人生で就職活動の写真撮影以外でメイクをしたことがない私は勝手に邪推した。

 

アオイヤマダ、かんばらけんた、もしもしチューリップ、キリーシャクレイ

身体をモチーフにした展示。奈落と自分を重ね合わせたその発想には素直に脱帽。彼らのような表と裏を行き来しながら自らの身体を商売道具として使うその様と奈落という存在は非常に面白い化学反応を起こしたなと思った。特にかんばらけんたの自分のレントゲン写真とTシャツの展示はこういった展示会場でないと成立しえないものだし、これを作品として消化できるための度量を同時に要求している。

 

The Making of the Naraku

みんなすげー!!おもれーーー!!(語彙0)

奈落でのパフィーマンス俺の運動神経なら間違いなくすっころんで死ぬね。間違いない。この作品については映像を見てもらわないとという気持ちがあるしとにかくすげぇ

 

I ( アイ)

今回の作品で個人的にものすごく刺さった作品。在日朝鮮人3世という生まれのポールダンサーKUMIが君が代を前に無人のポールを見つめる作品。安田大講堂での三島の論争を記録した映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を見ていた際の芥 正彦が人が名前も国籍も何もかもなくなった国が真の平等の理想の国というようなことを言っていた(私的解釈)が、人種とアイデンティティは非常に大きな要素を常にはらんでいる。

特にここ10年インターネットではネット右翼が席巻、保守を名乗っている。結局中韓排斥と自国保持なので発言はある意味江戸直前期くらいから何も進歩していないのである意味保守とも言えるのだが、在日やハーフという自らで決めることが出来ないアイデンティティすら時として暴力の対象としている。君が代という歌は一般的には天皇万歳的歌詞とされることが多く、これは多くの国の国歌とは一線を期していると言えよう。ある意味独裁国家に歌詞の感覚は近いかもしれない。(君が代に対して私は反対も賛成もない。ただ存在しているものでしかない。)

そんな君が代と彼女自身の表現方法であるポール、祭られている神様の弁天、国籍、KUMIの持つ葛藤や迷いが感じられる。この葛藤は本来存在しなくてもよい葛藤であるし、それだけ私たちの社会は出自アイデンティティ(国籍、宗教、土地)に対してある種語りあわなかったツケの歴史を持つという事を思う。

 

平位蛙

特殊メイクってすごいんだなってことを改めて教えてくれたし、歌舞伎町でもめだつよなぁだしネズミを中心として捉え続けるその姿勢と暗闇で生きるネズミとしての周囲との歪さを想起させ、Chim↑PomのANOMALYで行った展示、ハイパーラットを思い出させた。社会が歪なのか自分が歪なのか…

 

神曲

カオス!!!紙確かにカラオケのあれだなぁ!私が行ったときは誰も歌っていなかったけど、確かにカラオケ居酒屋ってこういうものだったのかなぁ。

建物は使われなくなったら徐々に死んでくる。これはどんなにぼろいアパートでも人が住んでいれば不思議とわかるしどんなに大きな豪邸でも使えわれていない家はわかる。そう考えると今回の王城ビルは死にかけているがまだ生きているのだ。壁はボロボロコンクリはぶっ壊れ基本的にしみがついている。だが生きている。これは人が入って最低限きれいにしたこともあるが、だがそれだけではない建物が何回も移りかわっていく強さを知れる、ある意味そんなビルの過去の側面を映し出すのがこの展示であるし、カラオケという日本によって作られた文化を、文化のるつぼないし掃きだめの歌舞伎町のぼろビルで映し出される面白さを感じることができる。

 

光は新宿より

そして屋上へ…友人が夜の歌舞伎町をこのぎりぎりの角度から堪能するのってあまりないねと言っていたが確かに歌舞伎町で働きでもしない限り雑居ビルの高さから歌舞伎町を見る事ってあまりないかもしれない。上を見上げれば奈落からの光が差し、歌舞伎町の各種ビルが見える。ちょうど曇りでじめっとした暑さも手伝い、熱気と沼の埋め立て地である歌舞伎町の風俗街に居るんだなって気が付く。このスローガンも、先が見えない戦後の闇市を仕切った暴力団によって作られたキャッチコピーであり、そういったことを踏まえると歌舞伎町への深度、奈落をまた違う気持ちで見れる。社会にとって、人間にとって奈落の存在は常に必要だ。奈落があるからこそ人間は身を沈める場所があり、その奈落でひっそり息をできる。そうした奈落の中で光という存在は一方で救いでもあり、一方でまぶしすぎるが故に敬遠されるものである。新宿の歌舞伎町、この町は東京で最もネオンが光り輝き眠らない町であると同時に奈落に最も近い場所である。先達はこの社会を予想していたかはわからない。しかし今この町の奈落は誰かにとって必要な場所であり、誰にとっても必要になるかもしれない場所である。

 

人の角質を食べるドクターフィッシュを養殖しそのドクターフィッシュを食べるというなんというかすさまじいライフサイクルの形を見れる。悪趣味が止まらない。でもめちゃくちゃ面白い。地産地消の究極的スタイルで是非SDGs導入を標榜している会社はオフィスでやるべきであろう。という質の悪いジョークは抜きにしてもただでさえ沼地を埋め立てた中での更に下水臭い地下でひっそりと人間のだしたゴミ(角質)を食べることで生きるドクターフィッシュ。ある種スーパーラットのようでもある。そして人間に食べられるために人間によって人間のゴミを食べ続ける魚。人間が人間の為に生み出したライフサイクルというシュールの極みが地下に存在していた。

 

今回の展示は歌舞伎町という様々な側面、歴史を持ち続けている社会での展示として非常に見ごたえのある展示であった。何度も書いているが私たちにとって奈落は常に隣合わせで存在しているものだ。普段私たちは奈落の存在を見ないようにしているし、知らない顔をして光を享受している。歌舞伎町ビルという圧倒的な光を放つ建物が出来た新宿でその下でうごめき続け支え続ける奈落。そんな奈落を今回歌舞伎町で見れた。

 

 

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