はじめに
ここ二年ほど、まったく動かしていなかったこのブログだが、最近またアウトプットをしたほうがいいなと思うようになった。未来の自分への啓蒙でもあり、他者への思想の伝え方としても悪くない。そんなわけで、しばらくまた書いてみようと思う。環境が少し落ち着いたというのもある。
最近、仕事で「AIを使ってコーディングしよう!」というタイプの案件に関わっている。個人的にはAIの進化に驚きつつも、まだ批判的視点を保ったまま比較的寛容に受け入れている側だと思うので、いわゆる老害になるのはまだ大丈夫かなと思っている。
とはいえ、最近のファスト系TikTokやYouTubeショートはどうにも疲れるのでほとんど見ていないし、BeRealもよくわからない。インスタもリールが何なのかいまだに理解しておらず、使う気も起きない。そういう意味では、すでに老害に片足突っ込んでいる気もするが……まあオタク気質な26歳独身男性の平均値といえば、そんなものかもしれない。
今回読んだ本について
今回は、三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか 』を読んだ。
私は普段、新書をほとんど読まない。最後に読んだのは、たぶん10年前の外山滋比古『思考の整理学』だった気がする(大学の持ち込み可の試験用に買った本は除くとして)。自発的に新書の類を買ったのも、今回が初めてかもしれない。
購入のきっかけ
この本が話題になっているのは知っていた。めちゃくちゃ売れている、面白い、と。しかし私はあまのじゃくの拗らせ人間なので話を聞くたびに、むしろ冷めてしまって読まずにいた。しかし、先日のバキ童チャンネル200万人記念コラボに三宅香帆が出演していたのをきっかけに、試しに買ってみることにした。
動画では、三宅香帆が「言語化ネキ」としてぐんぴぃに嫉妬されていたが、確かに話は面白いし、お綺麗な方でもある。三宅と同世代のぐんぴぃが嫉妬する気持ちも分かる。動画内で思ったのが三宅は、各論を一般化し、共感されやすい形で提示するのが非常に上手い。
一般化は難しい。特に動画では間延びしがちで、その間延びが喜ばれたりもする。その点、三宅はさらっと話を締め、意見の落としどころをきちんと示す。言語的合理性、とでも呼びたくなるその力は凄いと純粋に思った。
三宅を理解するには、売れている本を読んだほうが早いだろう。そう考えて手に取った。それが今回の始まりである。
理解と思考
ここからは本の内容に軽く触れつつ、私自身の理解と思考を起点に話を整理していく。
本作において三宅は、『花束みたいな恋をした』という作品と、文明開化以降の歴史を軸に議論を展開している。『花束〜』は確かに大きな話題作だった。私は中学時代、『陽だまりの彼女』の投げっぱなしエンドにブチ切れて以来、恋愛小説に近いものをほとんど受け付けなくなってしまったので、映画も小説も内容は知らない。ただ、SNSで話題になっていた記憶は鮮明にある。
忙しくなると本を読む余裕がなくなり、思考する力が削がれていくという感覚自体はよくわかる。三宅にとって本は息抜きであり、生きがいだったのだろう。私もそうだし、多くの人間にとって趣味とはそういうものだ。
私は1999年生まれで、2000年代を小学生として過ごし、SNSやYouTubeの普及とともに成長してきた世代である。中学あたりからオタク寄りで、当時のYouTuber黎明期を横目に、嫌儲などを読んでいた側でもある。そのため、同世代の非オタク層と比べて、文化への傾倒の仕方が少し歪んでいる自覚はある。
話を戻そう。そもそもなぜ現代において「本を読むこと」が知的教養のある行為と位置づけられているのか。ゲームや映画、身体を動かすことよりも、本を読んでいる行為が相対的に優位に扱われる。
さらに本の中でもランク付けをしたがる。新書は良い、ライトノベルは良くない、といった具合だ。大した根拠はなく、思い込みに近いレッテル貼りである(私の母親は典型的にこのタイプだった。本の読解力は私より低いのに、である)。
三宅が示しているように、現在「文学的」とされている作品も、当初はもっと娯楽性の高いものだった。例えば『痴人の愛』は、今では近代文学の重要作だが、当時は新聞連載の娯楽作品として始まっている(内容が内容だけに途中で掲載禁止になったわけだが)。
本を読んだからといって、その人が賢くなるわけではない。本を読む行為そのものが過剰に尊ばれている状況にも、私は少し懐疑的だ。特に現代の自己啓発本や「すぐに役立つ」本の氾濫を見ると、そこには消費スピードの価値づけが色濃く見える。
教養と労働と大衆化
円本文化の話は、個人的にとても面白かった。本は本来、大衆娯楽になるには高価すぎるものであり、その壁をどう越えたのか。金銭、労働、教養の関係を見事に整理していた。近代においてサラリーマンは「教養」を欲していた。
私にとって教養とは、自然に身につくものではない。一つの事象を理解したとき、他の知識と脳内で補完し合い、それを自分の言葉で抽出できる状態こそが本質だと思っている。本を揃え、読むところまでは現代でもある水準までは通用する。しかし、そこから先が通用しなくなるラインも確実に存在している。
時代が進むにつれ、本の担い手は知識層から男性へ、そして女性へと拡張していく。90年代の女性文学の台頭や、三宅が言及するさくらももことスピリチュアルの視点は、バブル崩壊後の滅亡論ブームや自己探求ブームと重なる。価値観が上昇し続けることへの疲弊は、相当なものだったのだろう。
バブル期には、仕事に打ち込み遊んでいれば(中身が伴っているかは別として)地位が上がっていった。しかしその圧力は、バブルとともに弾けた。それでも長時間拘束を是とする価値観だけが残り、人は息を吐く間もなく働き続けることになった。そして、そこからドロップアウトする人々が徐々に可視化されていった。
90年代のインターネットと教養の変質
インターネットの普及と整備により、教養は「実際に読む・見る」ものから、「誰かが語ったもの」「又聞き」へと比重を移していく。ゲーム文化でいえば、1989年のゲームボーイ、1996年のたまごっちの登場も象徴的だ。通勤時に携えるものが、本以外にも増えたという視点は重要だろう。
エッセイの流行も、教養という切り口から見れば「本を読まなくても困らない」形式の台頭とも言える。『サラダ記念日』や『もものかんづめ』は、『坂の上の雲』のような巨大な長編とは異なり、自己の内面にフラットに焦点を当てた読み物だ。
これは、社会で一人前になるために自己を鍛え、会社のために自分を磨くという意識が弱まった表れとも読める。不景気による倒産リスクが現実化し、自分どころか家族の生活すら危うくなる可能性が可視化された時代。そうした中で、自己内面を映し、共感を学ぶ文学へと転じていったのではないか。
00年代の消費文化と速度への違和感
2000年代以降は自己啓発の時代となる。私は20代半ばだが、いまだに自己啓発本を読んだことがない。三宅も述べている通り、要点を削ぎ落としたハック的思考がどうにも合わない。映画の1.5倍速視聴にも耐えられないし、まとめ動画ですら苦手だ。
20代はファスト動画世代と言われがちだが、案外、私のような人間も多いのではないか。娯楽が無限に供給される情報過多の時代だからこそ、自分との対話を求める人は少なくないはずだ。
花束〜の主人公のように、方法論をハックし、最短距離で成功を掴むスタイルは、現代のスピード感には合っているし嫌いではない。ただ、私個人にはあまり合わない。
おわりに
三宅がまとめた各時代の表を見ると、本の敷居は時代とともに下がりきり、その後は「読みやすさ」へとシフトしているように感じる。しかし一方で、人間の情報処理能力が変わらないまま、消費速度と競争圧だけが高まり続けている。
読書文化が今後どう変わっていくのかは正直わからない。それでも、ビジネス書や啓発本以外を読む同年代が、少しでも増えたらいいなと思う。
