製図座

映画とかゲームとか音楽とか触れた芸術についてアウトプットしていく場所

ナラッキーに行ったらスーパーラットと奈落と光を見た話

本日、新居の契約で新宿に行く用事と友人と遊ぶのも重なりナラッキーに行きたいねとなりいってきた。土曜日夜ということもあり新宿はがっつり人の動きも戻りつつあるなぁという気分。まぁめったに新宿東口は寄り付かないんだけど。

友達の仕事もあり合流したのは18時前頃。外も暗くなってきてまさに歌舞伎町はその顔をだんだんのぞかせる時間。友人のアシストもあり今回の展示の舞台『王城ビル』にはすんなりとたどり着いた。

 

え、めちゃいい建物じゃん!!ラブホみたい!!!!

 

これは多分おしゃれラブホをたまに調べたりタモリ倶楽部を見ていた人間共通の感想だと思う。知らんけど。

まぁそんなことは置いといてさっそく受付へ、ここでは入場料金と同意書の記入をお願いされる。ヌード展示あるし廃ビルだしってことを了承したら会場までの行き方を教えてもらい、いざ裏口へ。

いや裏口暗すぎだし汚すぎだろ!!!昔働きたくない3Kなるものが流行ったと聞くが、この裏口は多分3K通り越してエアK。弁天様の横を通りコスプレ風俗であろう建物の間を突き抜けて向かうというシステムであり中々かっぺには勇気のいる道。

勇気をだし歩き出した瞬間、われらがChim↑Pomの常に命題に掲げてるネズミちゃんと目が合った。これは展示ではなく生きたスーパーラット。

 

私はとてもネズミが苦手だ。それこそ森美術館で友達の後ろに隠れ、ANOMALYでは彼女の後ろからこっそりとじゃないと展示を見れないほどに。そして美術手帳の表紙がスーパーラットのせいでいまだにChim↑Pom特集は買えない。怖いもん

 

過去の話をしよう。私は忘れもしない小学四年生の1月、親戚そろっての餅つき大会でのことだ。当時ふざけて納屋の奥にいった私はネズミ捕りに引っかかり死んだネズミ数匹と靴がくっついたトラウマがある。今考えてもあれはおぞましい体験だ。あぁ…あわれ幼き少年はそれ以来ネズミに極端に怖がる青年へと育ってしまったのだ。

 

まぁこんな過去から私はネズミととても相性が悪い、そんな私が暗い路地裏を勇気を出して飛び込んだ瞬間明らかにくそでかいネズミと目があってしまった。これは私の小さな勇気をくじくには十分すぎる動機だったのだ。ひとまず友人を連れ道をでてほかの人たちが来るのを待ちしれっと先に行かせ、友人も先に行かせ、後ろには知らんおっさんを配置し盤石の布陣で突入をし、無事突入成功した。

(いや中も思ったより廃ビルだなぁ!!)そんなこととネズミが出ないことを祈りながら階段を進む。

以下は今回の解説の順に感想が続きます。

 

奈落

さっそく今回のテーマにして目玉の作品。尾上右近の自主公演『研の會』による公演中の奈落で録音された歌舞伎公演の音を聞きながらビルの吹き抜け/奈落を眺める。

奈落というものは普遍だと私は思っている。挫折をしたことがいない人間は基本的にはいないし、今人生の底だと思ったことがない人間もまずいない。これは歌舞伎町が形成されてきた歴史の中でもそうだろう。元々は歌舞伎を誘致するはずが失敗し名前だけ残った町、学生運動やデモの場所にもなった町、風俗街やトー横の問題のある町、そしてコロナでの悪として名指しされる舞台となった町。

歌舞伎町はコマ劇場やトーホーシネマズ、また区役所という重要な役割を果たす施設がおかれた街だ。そしてその歌舞伎町を作り出しているのは常に隠され奈落で生きる人間が主役だ。多くの人間が必要と認識しつつそれを蓋をしているのがこの町だ。

奈落に話を戻そう。この作品では奈落から↑を見上げることも下の一階の人間も見ることが出来る。むき出しのコンクリートは命を吹き込むわけでもない。ただそこに存在したことを暗い中で伝えてくれる存在だ。

 

The Making of the Naraku (セクション)

はじまり

ちょうど昼に軽く読んだ松田修Chim↑Pom from Smappa!Groupの共作。奈落を映すアーティストとしてこれほどふさわしいタッグも少ないだろう。エリィが映し出された映像では何かしらの会話をしており、始まりから面白い作品である。この映像の感覚は松田修らしさのエッセンスを感じることが出来、森美術館での「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」の《奴隷の椅子》も想起させる。

 

「顔拓」

ドラァグクィーンのMONDOの個人的なものを作品として展示したものだが、なかなかに面白い、私たちにとってドラァグクイーンは派手でどこか日常的でない存在であり、もちろんMONDOもパフォーマーとしての瞬間はそうであろう。しかしこの作品ではその強烈な個と人間である個のボーダーが取り払われている。私の友人の女の子でも化粧をするとそういう自分を被って気合が入るといぅていた女の子がいた。化粧も服と同じで自らに別のペルソナをデザインするものであり、その過程を記したものではないか?と人生で就職活動の写真撮影以外でメイクをしたことがない私は勝手に邪推した。

 

アオイヤマダ、かんばらけんた、もしもしチューリップ、キリーシャクレイ

身体をモチーフにした展示。奈落と自分を重ね合わせたその発想には素直に脱帽。彼らのような表と裏を行き来しながら自らの身体を商売道具として使うその様と奈落という存在は非常に面白い化学反応を起こしたなと思った。特にかんばらけんたの自分のレントゲン写真とTシャツの展示はこういった展示会場でないと成立しえないものだし、これを作品として消化できるための度量を同時に要求している。

 

The Making of the Naraku

みんなすげー!!おもれーーー!!(語彙0)

奈落でのパフィーマンス俺の運動神経なら間違いなくすっころんで死ぬね。間違いない。この作品については映像を見てもらわないとという気持ちがあるしとにかくすげぇ

 

I ( アイ)

今回の作品で個人的にものすごく刺さった作品。在日朝鮮人3世という生まれのポールダンサーKUMIが君が代を前に無人のポールを見つめる作品。安田大講堂での三島の論争を記録した映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を見ていた際の芥 正彦が人が名前も国籍も何もかもなくなった国が真の平等の理想の国というようなことを言っていた(私的解釈)が、人種とアイデンティティは非常に大きな要素を常にはらんでいる。

特にここ10年インターネットではネット右翼が席巻、保守を名乗っている。結局中韓排斥と自国保持なので発言はある意味江戸直前期くらいから何も進歩していないのである意味保守とも言えるのだが、在日やハーフという自らで決めることが出来ないアイデンティティすら時として暴力の対象としている。君が代という歌は一般的には天皇万歳的歌詞とされることが多く、これは多くの国の国歌とは一線を期していると言えよう。ある意味独裁国家に歌詞の感覚は近いかもしれない。(君が代に対して私は反対も賛成もない。ただ存在しているものでしかない。)

そんな君が代と彼女自身の表現方法であるポール、祭られている神様の弁天、国籍、KUMIの持つ葛藤や迷いが感じられる。この葛藤は本来存在しなくてもよい葛藤であるし、それだけ私たちの社会は出自アイデンティティ(国籍、宗教、土地)に対してある種語りあわなかったツケの歴史を持つという事を思う。

 

平位蛙

特殊メイクってすごいんだなってことを改めて教えてくれたし、歌舞伎町でもめだつよなぁだしネズミを中心として捉え続けるその姿勢と暗闇で生きるネズミとしての周囲との歪さを想起させ、Chim↑PomのANOMALYで行った展示、ハイパーラットを思い出させた。社会が歪なのか自分が歪なのか…

 

神曲

カオス!!!紙確かにカラオケのあれだなぁ!私が行ったときは誰も歌っていなかったけど、確かにカラオケ居酒屋ってこういうものだったのかなぁ。

建物は使われなくなったら徐々に死んでくる。これはどんなにぼろいアパートでも人が住んでいれば不思議とわかるしどんなに大きな豪邸でも使えわれていない家はわかる。そう考えると今回の王城ビルは死にかけているがまだ生きているのだ。壁はボロボロコンクリはぶっ壊れ基本的にしみがついている。だが生きている。これは人が入って最低限きれいにしたこともあるが、だがそれだけではない建物が何回も移りかわっていく強さを知れる、ある意味そんなビルの過去の側面を映し出すのがこの展示であるし、カラオケという日本によって作られた文化を、文化のるつぼないし掃きだめの歌舞伎町のぼろビルで映し出される面白さを感じることができる。

 

光は新宿より

そして屋上へ…友人が夜の歌舞伎町をこのぎりぎりの角度から堪能するのってあまりないねと言っていたが確かに歌舞伎町で働きでもしない限り雑居ビルの高さから歌舞伎町を見る事ってあまりないかもしれない。上を見上げれば奈落からの光が差し、歌舞伎町の各種ビルが見える。ちょうど曇りでじめっとした暑さも手伝い、熱気と沼の埋め立て地である歌舞伎町の風俗街に居るんだなって気が付く。このスローガンも、先が見えない戦後の闇市を仕切った暴力団によって作られたキャッチコピーであり、そういったことを踏まえると歌舞伎町への深度、奈落をまた違う気持ちで見れる。社会にとって、人間にとって奈落の存在は常に必要だ。奈落があるからこそ人間は身を沈める場所があり、その奈落でひっそり息をできる。そうした奈落の中で光という存在は一方で救いでもあり、一方でまぶしすぎるが故に敬遠されるものである。新宿の歌舞伎町、この町は東京で最もネオンが光り輝き眠らない町であると同時に奈落に最も近い場所である。先達はこの社会を予想していたかはわからない。しかし今この町の奈落は誰かにとって必要な場所であり、誰にとっても必要になるかもしれない場所である。

 

人の角質を食べるドクターフィッシュを養殖しそのドクターフィッシュを食べるというなんというかすさまじいライフサイクルの形を見れる。悪趣味が止まらない。でもめちゃくちゃ面白い。地産地消の究極的スタイルで是非SDGs導入を標榜している会社はオフィスでやるべきであろう。という質の悪いジョークは抜きにしてもただでさえ沼地を埋め立てた中での更に下水臭い地下でひっそりと人間のだしたゴミ(角質)を食べることで生きるドクターフィッシュ。ある種スーパーラットのようでもある。そして人間に食べられるために人間によって人間のゴミを食べ続ける魚。人間が人間の為に生み出したライフサイクルというシュールの極みが地下に存在していた。

 

今回の展示は歌舞伎町という様々な側面、歴史を持ち続けている社会での展示として非常に見ごたえのある展示であった。何度も書いているが私たちにとって奈落は常に隣合わせで存在しているものだ。普段私たちは奈落の存在を見ないようにしているし、知らない顔をして光を享受している。歌舞伎町ビルという圧倒的な光を放つ建物が出来た新宿でその下でうごめき続け支え続ける奈落。そんな奈落を今回歌舞伎町で見れた。

 

 

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