製図座

映画とかゲームとか音楽とか触れた芸術についてアウトプットしていく場所

一分前の自分は自分かもしれないし自分じゃないかもしれない。【梅田哲也展 wait this is my favorite part 待ってここ好きなとこなんだ】

 あけましておめでとうございます。気がついたらハチャメチャに更新してなかった。
 というのも10月から環境変わりどうも忙しく…。誰に言ってるんだがわからないがまァ一応。

1.開始まで

 日曜日、お昼頃池袋でFF7ACを見てきてから表参道へ移動し、夕方の会に参加してきた。この日はちょっと天気も微妙に晴れきらず少し肌寒い一日だった。
 美術館の展示というものに通常、参加という言葉はあまり用いない。teamLabや最近流行りのイマーシブ系のものには用いるかもしれないが、あれはどちらかというと資本主義的分野に強く足を踏み込んでいる毛色のもの(書き方がよくないが決して批判的性質は持ち合わせていない。)かと個人的に思っており、また自らの選択的能動体験というところに重きがあると思っている。この辺の話は未来の自分にしてもらうとしよう。

 本題の感想や考察の前に参加という言葉の個人的使用意図と今回のブログの意見の前提の話をしようと思う。
 私は公共性や私的空間について考えるのが好きだ。私の現代美術観に多分に影響を与えているChim↑Pom from Smappa groupは公共の空間とはなにかを模索するために美術館やギャラリーにアスファルトで道を作りそこで展示を見に来た人々とともに公共の道として成り立たせるためのルールの策定をした。

 なんとなく親しみやすい話題でいうとバンクシーのストリートアートはアートか?落書きか?という話かもしれない。バンクシーが書いたから美術的価値が生まれるが、そうでなければ(そうであっても)ただの器物損害でしかない。そこに生まれる公共の価値の創造や意義、意味合いといったことを考えるのが面白いのだ。その場その場全てに共通しているが細分化された独自の存在ルールが有る。社会におけるコミュニティと近いかもしれない。

 美術館とは公共の場である。ワタリウム美術館は私設美術館なので他の国立系などに比べると公共性に関しては少し低くなるかもしれないが、それでもやはり基本的に静かにすべきところだし、それこそ走り回るような公共を乱す人間は、もしかすると国立系に比べたらもっと少ないだろう。 

 しかし今回は普通の美術展示とは大きく要素が異なる、インタラクティブな美術館を舞台としたツアー参加型の展示である。

 美術館は基本的に受動的な場であることが多い。写真撮影の為や気になるあの人を口説くため、美術を専攻したりしている人にはその限りではないかもしれないが…まぁ多くの人間にとって美術館は自身の能動的な行動と関係なく完結する作品と触れることがほとんどを占める。

 これは美術館の大きな特徴であり担保されている所であろう。しかし今回の展示では勿論そういった担保はされているが、しかし自身の想像性や受動的行為が組み込まれることで展示が成り立つものだと思った。

 具体的な展示の話をしながら感想を述べていこうと思う。

1.9 感想の前提にあたって

 あくまで個人の感想であり正解不正解や快不快の話はしない。また作品の性質とブログ主の趣旨上、時系列的と感性を第一に描いている。

 しかし一度の体験なので細かい順序や時系列の前後は考えられる。また自分が心に残ったものを書くので、抜けてる展示などもあるかもしれないがそこはあくまで備忘録的側面の強いブログということを踏まえてプラス思考で見ていただきたい。

 最終日が終わったので問題ないとは思うが普通にネタバレなので一応注意を。

※レポ中心部分は斜め表記にしている。

 

2.感想

【始まり―暗い部屋】

 決して広いとは言えないエレベーターで私と私の同行者、男性1人、女性3人の計6人で4階まで登り、トイレと吹き抜けから見えるなにかの舞台裏??らしきセットを見おろすところから始まる。エレベーターで後から来た演者が静かにエレベーターを降り、壁だったところを開ける。壁の奥は暗い部屋に吊るされたガラス瓶と蠟燭。誘導されると壁が閉じられ暫しの蝋燭の明かりだけが小さく私達を照らす。

 私は結構密室で暗いところ、怖い系が苦手なので少し苦手じゃのおと思い少しだけ同行者を感じられるところからそっと蠟燭を見つめる。

 演者が静かに近づき、瓶になにかを入れていく。そしてライトで一周蠟燭を照らす。そしてトランシーバーを持ちライトで方角を指し示しながら今どの方角かとワタリウムの中心線について話す。

 東西南北と人は非常に深いところで結びついている。人間は星を頼りに昔方角を、理解し航海を行っていたし未だに方位除けなんてものや東京、京都では◯◯門で方角を指し示していたり、その方角に住む化生を門で霊験あらたかに防いだり。また枕の位置はどちらがよいなんてものも聞いたことあるだろう。

 暗い部屋で方角を指し示される。これだけで一気に人は安心ができる。自分がどこにいるかを提示されるからかもしれないが自らの存在している地面を踏みしめられるようになる。

 演者が信号が青になると道路を車が走る音が聞こえるという話をし、明かりは見えないが外階段へとつながるドアを開ける。車の音はたしかに聞こえてきた。

 暗闇で音が聞こえると少しぼぅっとしてくる。この感覚は知っていた。「21_21 DESIGN SIGHT」の【2121年 Futures In-Sight】展で見たevalaの作品だ。暗闇で真ん中が少し明るい中で音が聞こえてくる作品だったが、その作品でもやはり同様にぼぅとし、ある種のトランスではないが身体が暗闇での緊張から、音による弛緩という感覚は同じ感覚であった。また蠟燭と暗闇ではワタリウムでの視覚トリップ展の確かナム・ジュン・パイクの作品と記憶しているがそちらでもあった。ろうそくと暗室というギミックは似ている。なんとなくそんなことを思い出した。

【バックルーム】

 壁が開き別の演者に誘導され外の階段へと降りる。

 壁にある小さな穴から外が見える。同行者はそこで外の空き地の看板から人が見えたと言っていて見えちゃいけないもん見えたと言っていた。因みに私は気が付かなかった。以外と見る暇がなくてまぁ外の風景だしなという気分でもあったし。

 降りると入り口に糸電話が合ったがどこに繋がってるかこのときは見当もつかなかった。ドアから入るとワタリウムのどうやらスタッフルームに繋がっているようで、資材部屋に通されそこで初代館長の声が録音されたラジカセが鳴りながら女性がPCをうち部屋でワタリウムの設計図や集積物を見ながらワタリウムの由来について聴く。

 あぁ、つまりここはワタリウムの始まりと今までの歴史なのである。「待ってここ好きなとこなんだ」は(フライヤーを見ればわかるが改めて)ワタリウムなのである。日本の私設美術館として、現代アートを押し出す場として重要な意義を作り続けてきたワタリウムなのであると。私達が普段見る場所ではないバックステージまで使ったワタリウムという場所の時間の紹介なのかと。

【船旅と台車】

 スタッフ用のキッチンを通り階段を降りる。降りて次の部屋に入るとガラス越しに最初に見た組み立てられた舞台裏?が見えてくる。ここで舞台裏ではなくセットだとわかる。しばらく中を観ているとガラス越しにセットから演者が現れる。演者は顔の高さにワタリウム美術館施工許可証の複製ボードを掲げ、それから扉を開けそのセットの中に私達を誘う。入ると演者がグルグル回る拡声器越しで話を始める。

 今回の演者紹介を始め、また方角を指し示す。これから船旅を始めると、暗い部屋に居たのは1分後のワタシ。今いるのは一分前のワタシというとマイクから口を離す。だが拡声器からは声が聴こえ続ける。録音したものだったのだ。

 面白いと思った。この演目はその性質上シフト制で回るものだとは思っていたがそれをうまく取り、一日役割が決まり行動する演者の動きに自分たちは組み込まれている。繰り返される演者の行動、その回その回で違うものを見に行く私達。ここで規範されている演者と録音されている拡声器。自分の立ち位置の安全性が少し揺らいでいるかもしれない。それはもちろん物理的に今回の為に組まれた足場の心情的不安もあるし、そこに存在しているのに明日は全くの別の人、シフトで動く演者達という絶対性の動きの揺らぎ。

 私は人間というものはメメント・モリを呼び起こすことを苦手だと考えている。自分が今ここで死ぬことを想定して身体を動かす人間はあまりいないし、いつか人間は死ぬとわかっていてもなんとなく何年後も同じように生きていると思い込んでる。

 人間の細胞は約三年で全て入れ替わるという。また都市も日々変化している。毎日同じ時間に同じ行動をし続けているものはほとんど無い。そんな中ある種美術品の恒久的保持を目的とする美術館。変化する社会。現代アートとは?とグルグルと世界が巡る。普遍と不変と変化。

 拡声器で紹介が終わるとセットの階段を降り台車の上に乗る。眼の前の窓が大きく開かれると同行者があそこにやっぱり人がいるよ!と言って眼の前を指す。確かに目の前の看板の有る空き地から人が手を振っている。そうして台車が船の音とともに動き始める。これは航海であった。あそこで手を振っているのは異国の人であろうか、それとも私達の旅を見送る人であろうか。

 前でも述べたが方角とは旅をする時に必須のものである。自らが今どこにいるのか?どこから来たのか?どこへ向かうのか?これはこの展示においても同じかも知れない。ワタリウムを巡る現在にいながら過去を断片的に巡る時間旅行の中で。タイムマシンは理論的に言えば未来へ行くことは可能だそうだ。だが過去には行けない一方通行である。しかし、想像の世界では違う。想像することで私達は知らない過去のことも断片的に知ることができる。可能性の世界を台車、いや船を通じて指し示している。

 

 船を降りる。下で販売しているTシャツを作る人、異国の音が流れる中で事務作業をする女性たち。右端と左端では外に向かってそれぞれ緑と赤のライトが光っている。

 それぞれが調和と異質を同時に含んでいる。外に向かって伸びるライトの色を見て信号機と他の人が言っていた。確かに信号機は青と赤の構成だ。それとは別に私は飛行機を思い出した。飛行機の両翼は緑と赤である。公演が終わってから今調べているとどうやらこれは船の「舷灯」の灯火ルールと同じらしい。私達が台車から降り立った地はワタリウムの旅のそれぞれの地点かと思っていたがどうやらそれだけでなく、気がつくと私達はワタリウム美術館という大きな船の中に居たようだ。渋谷の地で現代美術のカルチャーを提示し続けてきたワタリウム。今までの軌跡とこれからの行く先をこの船に乗って私達は時に遠くから、時に近くから歩むのかもしれない。

 演者に誘導され階段を降りる。一階の入口に戻る。旅もこの展示もこの演目も徐々に終わりが見えてきた。地下へ誘導される。地下では天野裕子氏のこの展示に関連した写真が展示されている。第三者の目から見たこの展示を本人の声を通して撮影の意図について聴く。贅沢な時間である。

 旅も意外とこんな感じなのかなと思った。一度外に出て様々に経験、体験をした後に元鞘へと戻る。そして元いた所で安心感を覚える。そして少しゆっくりと自分が体験したことをカメラを通して、第三の目を通してもう一度振り返る。自分が体験しなければわからないコト、カメラ越しでしか気付けないコトの両方がある。

 天野氏の目線でしか気が付かない視点と私しか気が付かない視点。それが重なる瞬間の写真は私達にとってすごく快感であり、ギャラリーと展示が一体化してある醍醐味であった。

 カフェスタッフの通路を通る。そこで5分後に地図の場所に集合してほしいと告げられる。一度別れたあと5分後にあの看板の上で集まる。次の回の人たちに手を振り、そして自由解散となりこの展示は終わりを迎える。

 地図を見て今までは誘導されていた旅を最後に自らの意思で向かう。自らの足で街を踏みしめる。そして空き地に着く。チンポムの作品の横を通り看板の上に立つ。

 そして後ろの回の人たちに手を振る。私達が数分前にされたように。

 私達は旅の終わりで次の旅人達を見送っているのかもしれないし、こちらに来ることを歓迎しているのかもしれない。それは数分前の自分達のように。数分後に体験するあの人達に向けて。そしてシフト制で周る演者たちにありがとうの意も込めて手を振る。この行為はとても自然で美しい行為である。同時にワタリウムを巡る時間旅行の終着点としてとてもキレイだと思った。

 たまたま同じ回を選んだ見ず知らずの人と時間を共有することで少し話しながら親近感が湧く瞬間。同じ要素を脈々と繋ぎながらしかしその時その時によって、人によって変わる普遍性。同じシフトでも回、日ごとに違うだろうしそういった意味では常に最新であり続けることの面白さ。そしてワタリウムのバックヤードを垣間見つつその持つ歴史を感じられる今回の作品はとても楽しく、美しい気持ちになるものだった。 

 

3.総評

 とても楽しく美しいと思った。作家の好きが溢れていたし、旅をしている気分で建物を巡れた。ワタリウム美術館の形状はかなり独特でそれを活かした表現方法や作品の一部として入ることで私達の存在を改めて地に足つけられるモノに少なくとも私にとってはなった。

 現実では国立の博物館などですら経営が厳しいという。社会全体がそれだけ体系的な深い知識や思索に耽ることを許せないほどに追い込まれつつある。また自らの手の届くこと以外への不寛容が少しだけ強まっている。そんな中でこの展示ではほとんどが目線や少しの動きだけで誘導し、私達は誰に強要される訳でもなく自然と空き地から見知らぬ人に手を振っている。同じ場、空間を共有し空気感を味わうことでほんの少しでも誰かのことを何かのことを考えることが出来て、改めてワタリウム美術館のことを待って、好きと思わせてくれるものであった。

 

久しぶりに書いたら疲れた…。そのうちリンクつけたり追記修正するかも。